<今、ジャイアント馬場を語ろう>帰郷興業ではいつも、母校の小学生達と触れ合ってくれた…世界的スターの名を永遠に:東京新聞 TOKYO Web

連載⑤三条ジャイアント馬場倶楽部会長・中條耕太郎さん(53)

新潟県三条市が生んだ希代のプロレスラーを名誉市民にしたいと、私たちは2015年秋から署名活動を始め、1万人超の署名を集めました。翌16年、馬場さんの功績は認められ、名誉市民の称号が贈られました。

◆試合前、グッズ売り場に座って自らサイン

その後18年には、馬場さんの偉大さを市民に広く知ってもらおうと「三条ジャイアント馬場倶楽部くらぶ」を発足させました。こうした活動の中心は「三条PWF(プロフェッショナル・レスリング・ファンクラブ)」。私が作った地元のプロレス愛好家グループです。

倶楽部は、馬場さんがハワイで乗っていた米車「キャデラック エルドラド1976」の市内展示の実現に協力したほか、地元に残る資料の掘り起こしや調査など、馬場さんの名を残す取り組みを続けています。

三条ジャイアント馬場倶楽部会長・中條耕太郎さん

私がプロレス少年だったころ、三条市厚生福祉会館で年1度行われる全日本プロレスの大会を必ず見に行っていました。試合開始前、馬場さんがグッズの売店で椅子に座りながら葉巻を加え、商品に無口でサインをしていた姿が印象に残っています。馬場さんはご当地興行で帰郷すると出身校の市立四日町小学校を訪れ、年の離れた後輩の児童たちと触れ合うのが恒例で、地元愛が伝わってきました。

◆「活躍した姿を知るギリギリの世代」だからこそ

名誉市民が決まった後、馬場さんの妻元子さんと話す機会がありました。今年53歳の私に、元子さんは「もう、あなた方が馬場さんが第一線で活躍していた姿を見たギリギリの世代だよね」としみじみ言い、すごくいい笑顔になった。元子さんが亡くなる1年ほど前でしたが、馬場さんが名誉市民になったと伝えられて良かったと思います。

馬場さんは約60年前、米ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でメインイベントを張り、当時の世界三大王座に連続挑戦した「ドル箱レスラー」。本場アメリカのプロレスを初めて日本に持ち込んだ人です。今、若い世代には馬場さんをよく知らない人も増えていますが、世界でトップをとったジャイアント馬場は、地元の子どもたちの目標と地域のシンボルであり続けてほしいと思います。(聞き手・中谷秀樹)

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<連載:ジャイアント馬場が残したもの~逝去から四半世紀>
日本プロレス界の巨星・ジャイアント馬場さんが亡くなり来年1月で四半世紀を迎える。今もファンから愛される馬場さんがプロレス界や社会に残したものを、ゆかりの5人に聞いた。

「ジャイアント馬場 16文キックの伝説」

◆自伝を復刊、全国の書店で販売中

ジャイアント馬場さんの貴重な肉声を収めた自伝を復刊し、元付き人として馬場さんをよく知るレフェリー・和田京平さんのインタビューと時代状況がわかる序章も加えた「ジャイアント馬場 16文キックの伝説」を、全国の書店で販売中。定価1650円(税込み)、240ページ、四六判。



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