丸でもなく四角でもなく…なんと八角形の土俵があった 人々の生活と深く結びついた「南部相撲」とは:東京新聞 TOKYO Web

 今回のスポーツ探偵は、相撲で使われる土俵の形にこだわって調査した。「土俵は丸い」という先入観にとらわれてはいけないこと、見慣れたものの中に知らない歴史があることに気付かされたが、実は、丸、四角以外にも八角形の土俵があった。ここでは、さまざまな形の土俵を使用した南部相撲と人々の暮らしについて、書いていきたい。(谷野哲郎)

◆盛況を極めた地方相撲

 日本相撲協会監修の「大相撲大事典」によると、南部相撲とは「昭和初期まで南部地方(現在の岩手県)で行われていた、四角い土俵の特徴とする相撲のこと」とある。

 大相撲は、江戸時代後期、両国にある寺院・回向院(えこういん)の勧進相撲がルーツとなり、現在の形になっていくのだが、それまでは日本各地に独自の相撲があった。中でも最近までその姿を残していたのが、盛岡藩で行われていた南部相撲である。

 盛岡市にある「もりおか歴史文化館」の学芸員・小原祐子さん(50)は「この地方は古くから南部家が治めていました。南部といえば、南部せんべいや南部鉄器が有名ですが、藩主の庇護(ひご)もあり、栄えた南部相撲もよく知られています」と説明した。

「相撲極傳之書」に描かれた「遊覧角力之図」。土俵は二重の四角形で屋根がついている。盛岡藩の人たちはこのような形の相撲を観戦していた=もりおか歴史文化館提供

 上記の絵を見てもらいたい。江戸時代の盛岡藩では、このような形で庶民が観戦できる遊覧相撲(勧進相撲とも言う)が盛んに行われていた。四隅に色の付いた柱があり、屋根には相対するしゃちほこが飾られている。遊覧相撲は藩のあちこちを巡業し、各地で2日から10日間くらい催されていたという。

◆目的別に異なる相撲様式と土俵の形

 先ほど紹介した資料は「相撲極傅(ごくでん)之書」と呼ばれ、同館が所有する資料の一部である。南部相撲の詳細を今に伝える貴重なもので、これによると、南部相撲では、目的別に相撲様式が分かれていた。

 主な5つの様式を簡単に説明すると、次のようになる。

(1)最も格式が高く、特別な儀式の際に行われた「式正(しきせい)相撲」

(2)神前に奉納する「神前相撲」

(3)藩主や貴人の前で行われた「御前相撲」

(4)寄進などのため、衆人の前で行われた「遊覧相撲」(勧進相撲)

(5)死者の供養のために行われた「追善相撲」

「相撲極傳之書」に記された式正相撲の図。三重の八角形の土俵を使用する=もりおか歴史文化館提供

 土俵の形もそれぞれ違う。「式正相撲」が三重の八角形、「神前相撲」と「御前相撲」が二重の丸、「遊覧相撲」が二重の四角、「追善相撲」が一重の四角と決められていた。八角形など、独自の形が定められたのは、陰陽五行の思想が関係していると考えられている。

同じく「相撲極傳之書」に書かれた神前相撲の図。神様の前で行う相撲は、二重の丸土俵を使う=もりおか歴史文化館提供

 江戸時代には各藩がお気に入りの力士を抱えるなど、地方でも相撲は隆盛を極めた。しかし、明治維新が起き、藩が消失したことで大名の抱え相撲は衰退していく。それでも、岩手県を中心とするこの地方では、旧盛岡藩の行司が南部相撲のしきたりを伝え続けた。特に四角い土俵で取る相撲は「南部の角土俵」と呼ばれ、昭和30年代まで残っていたそうだ。

◆人々の日常に相撲があった

 南部相撲を調べると、かつて、相撲は神事であり、娯楽であり、死者の弔いでもあったことがわかった。想像以上に、相撲は日本各地で人々の日常生活と結びついていたようだ。

 「もりおか歴史文化館」の小原さんは「南部相撲の影響でしょうか。ここでは神社の境内や公民館など、意外なところに土俵があるのを見つけます。相撲と人々の関係が近かったのでしょうね。南部相撲の資料は整理されていないものが、まだたくさんあります。これからも研究を続け、しっかりと後世に伝えていきたいですね」と話す。

「陸奥の土風」=二戸市教育委員会提供

 岩手県二戸市には「陸奥の土風(どふう)」という絵巻物がある。幕末から明治時代にかけて活躍した画家・小保内東泉によって描かれたものだと伝わるが、この中に相撲を行い、それを楽しそうに観戦する人々の姿が描かれている。このような光景は日本の至る所で見られたのだろう。



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